コインゲームを考える
表なら掛け金が1.5倍、裏なら0.6倍になるコインゲームでは、1回の期待倍率は1.05倍です。
それでも全財産を賭けて表と裏を一度ずつ引けば、資産は2回後に1.5 × 0.6 = 0.9倍になります。
平均がプラスでも、資産がたどる一つの道のりは決まりません。
この差は、足し算で見る平均と、残高に倍率を掛け続けた結果が別だから生まれます。
100円を固定して賭けるなら、1回の期待利益は+5円
最初に、毎回100円だけを賭けるコインゲームを考えます。 表なら賭け金を含めて150円を受け取り、裏なら60円を受け取ります。 つまり、1回ごとの損益は表が+50円、裏が−40円です。 表裏の確率をそれぞれ1/2とすると、期待利益は次のとおりです。
このゲームでは賭け額がいつも100円です。 残高は、勝てば50円増え、負ければ40円減るという足し算で動きます。 途中で減ることはあっても、賭け額そのものが残高に合わせて膨らんだり縮んだりはしません。
残高の全額を賭けると、同じ「平均」では見えない
今度は残高の全額を賭け、表なら1.5倍、裏なら0.6倍になるとします。 1回の期待倍率は、
で、たしかに1より大きい値です。
しかし、表と裏が同じ回数だった場合、2回で資産は1.5 × 0.6 = 0.9倍です。
1回あたりへ戻すと、複利での倍率はsqrt(0.9)、およそ0.949倍になります。
ここで比べているのは別の値です。 1.05倍は1回の倍率を足して平均した値で、約0.949倍は勝ち負けが同数のときに実際に積み上がる倍率です。 全額を賭けると、増減が残高へ掛け算で効くため、この差が資産経路に現れます。
同じランダムな100回の勝敗の資産推移
初期資産は10,000円です。 同じランダムな100回の勝敗(48勝52敗)を両方へ適用します。 固定額ゲームは毎回100円を賭け、全額ゲームは毎回残高の全額を賭けます。
- 固定100円
- 残高の全額
固定100円では最終資産額が10,320円です。 残高全額では約8.25円です。 同じランダムな勝敗でも、固定額は足し算、全額は掛け算で残高が動くため、結果が分かれます。
米国株式市場の日次リターンを4つの分布で比べる
次は仮想のコインではなく、Kenneth R. French Data Libraryの日次データを使います。1
使用期間は1926年7月1日から2026年6月30日までの全26,274観測で、除外はありません。2
Mkt-RFは市場の超過リターンで、同じ日のRFを足し戻します。3
r = (Mkt-RF + RF) / 100の日次単純リターンを、x = log(1 + r)の日次対数倍率に変換して4分布を当てはめました。4
正規分布は左右対称で、極端な値が出る裾を薄く置くモデルです。 Studentのt分布も左右対称で、裾を厚く置くモデルです。 Hansen skew-t分布は、下落側の裾をより厚く表せます。 正規逆ガウス(NIG)分布は、左右差と厚い裾を柔軟に表せます。
| モデル | AICc | 最良モデルとの差(ΔAICc) |
|---|---|---|
| 正規逆ガウス(NIG)分布 | -173,085.39 | 0.00 |
| Hansen skew-t分布 | -173,032.20 | 53.19 |
| Studentのt分布 | -172,951.93 | 133.46 |
| 正規分布 | -163,428.01 | 9,657.38 |
AICcは、同じ日次データにどの分布がどれだけ合うかを比べる指標で、小さいほどこの標本にはよく合います。 この比較ではNIG分布が1位で、Hansen skew-t分布は2位でした。
4モデルで10年、20年、30年を比べる
初期資産を10,000円とし、1年を252営業日として、各モデル10,000経路を10年、20年、30年まで積み上げました。5 P10は最終資産額を小さい順に並べたときの下位10%の境目です。 中央値は中央の資産額、元本割れは10,000円を下回った経路の割合を表します。
最初の経路図は、各モデルの30年後の資産額が高い順に5,000位となる実経路を4本重ねた全域図です。 縦軸は、金額の比率を読みやすくする対数目盛りです。 経路は日次で計算し、図では21営業日ごとの値を示します。 続く2つのヒストグラムは、各モデルの30年後の全10,000経路の終値を示します。 2つ目のヒストグラムは、同じ4モデル×10,000終値のうち1,000円から100,000円の表示範囲だけを拡大したものです。 終値を削除したり、集計し直したりしていません。
- 正規分布
- 対称 Student-t 分布
- Hansen skew-t 分布
- Normal-inverse-Gaussian 分布
- 正規分布
- 対称 Student-t 分布
- Hansen skew-t 分布
- Normal-inverse-Gaussian 分布
- 正規分布
- 対称 Student-t 分布
- Hansen skew-t 分布
- Normal-inverse-Gaussian 分布
経路図の線は、各時点の中央値をつないだ線ではなく、30年後の終値順位が中央の実経路です。 同じ初期資産と期間でも、モデルによって中央付近の経路は異なります。 全域と1,000円から100,000円の拡大を見比べると、4モデルで終値全体の広がりが異なることも分かります。
期間を10年、20年、30年と切ったときの下位10%(P10)、中央値、元本割れ確率をそれぞれ示します。
10年後
| モデル | P10 | 中央値 | 元本割れ |
|---|---|---|---|
| 正規分布 | 12,885円 | 25,638円 | 4.28% |
| Studentのt分布 | 29,392円 | 66,472円 | 0.29% |
| Hansen skew-t分布 | 10,404円 | 23,343円 | 8.97% |
| 正規逆ガウス(NIG)分布 | 12,909円 | 25,786円 | 3.89% |
20年後
| モデル | P10 | 中央値 | 元本割れ |
|---|---|---|---|
| 正規分布 | 24,605円 | 65,525円 | 0.65% |
| Studentのt分布 | 137,907円 | 437,441円 | 0.06% |
| Hansen skew-t分布 | 17,280円 | 54,247円 | 3.45% |
| 正規逆ガウス(NIG)分布 | 25,282円 | 65,214円 | 0.63% |
30年後
| モデル | P10 | 中央値 | 元本割れ |
|---|---|---|---|
| 正規分布 | 50,565円 | 167,447円 | 0.07% |
| Studentのt分布 | 684,014円 | 2,887,785円 | 0.01% |
| Hansen skew-t分布 | 30,830円 | 126,009円 | 1.24% |
| 正規逆ガウス(NIG)分布 | 51,645円 | 164,426円 | 0.13% |
三つの期間すべてで、Hansen skew-t分布はP10と中央値が最も低く、元本割れが最も高くなりました。 そのため、ここからは4つのうち最も保守的な結果を示したHansen skew-t分布に注目します。
Hansen skew-t分布の中央値を年率へ戻す
| 期間 | 中央値 | 中央値から換算した年率幾何平均 | 元本割れ |
|---|---|---|---|
| 10年 | 23,343円 | 8.85% | 8.97% |
| 20年 | 54,247円 | 8.82% | 3.45% |
| 30年 | 126,009円 | 8.81% | 1.24% |
中央値から換算した年率幾何平均は、各期間の中央値を初期資産10,000円で割り、その期間で複利換算した値です。 同じ26,274営業日の実績リターンを日次の対数倍率で平均し、1年252営業日として複利換算すると、年率幾何平均は9.83%でした。 実績の9.83%は一つの時系列を平均した値で、表の8.85%、8.82%、8.81%は10,000経路の終値を横断して求めた中央値からの換算です。 同じ複利の年率でも、求め方が異なります。
平均がプラスかどうかだけでは、資産の道のりは決まらない
固定額のゲームでは、1回あたりの期待利益+5円が残高へ足し算で加わります。 全額ゲームでは、同じように平均倍率が1を超えていても、損失と複利の組み合わせが残高へ掛け算で続きます。 見るべきものは平均だけではなく、どの倍率を繰り返すのか、中央値がどこにあるのか、元本を下回る経路がどれだけあるのかです。
Kenneth R. French Data Libraryの日次データに4つの分布を当てはめ、その分布から資産経路を計算しました。 Studentのt分布は上振れていましたが、Hansen skew-t分布では普通の正規分布よりも下振れる様子が確認できます。 運の悪いケースで、30年後の資産が1/10になっているものもありました。
おまけ:Hansen skew-t分布の5つの実経路
初期資産10,000円から、Hansen skew-t分布で10,000経路を日次で30年間積み上げました。 表示は21営業日ごとです。 5本は、30年後の資産額が高い順に上位10%、30%、50%、70%、90%となる実経路です。
- 上位 10%
- 上位 30%
- 上位 50%
- 上位 70%
- 上位 90%
同じモデルでも、終値順位が異なる実経路では途中の資産額と30年後の資産額が大きく分かれます。
脚注
-
データはKenneth R. French Data LibraryのFama/French 3 Factors(日次CSV)を2026年8月23日に取得しました。 ↩
-
使用期間は1926年7月1日から2026年6月30日で、元CSVで0.01%刻みに丸められた日次の公表値を%から小数へ換算した全26,274観測を用い、除外はありません。 ↩
-
Mkt-RFは市場の超過リターン、RFは無リスク利子率であり、項目の定義はFama/Frenchの市場超過リターンの説明を参照してください。 ↩ -
日次単純リターンは
r = (Mkt-RF + RF) / 100、日次対数倍率はx = log(1 + r)として計算しました。 ↩ -
日次対数倍率
xを日々加算して資産額を計算しました。 ↩